昭和五十七年三月十八日 朝の御理解


御理解第五十五節
賃を取ってする仕事は、若い時には頼んでもくれるが、年をとっては頼んでくれぬ。信心は、年が寄るほど位がつくものじゃ。信心すれば一年一年ありがとうなってくる。


 合楽理念に基づく生き方を、いよいよ身につけてまいりますと、信念に満ちた生き方が出来るようになる。どんな場合であっても、心が動じない、動かない。例えばそれが問題であっても、問題を問題とする事がなくなってくる。
 とにかく信心させて頂いて、問題が問題じゃなくなってくると云うところまで、信心を分からせてもらい、それを実験実証さしてもろうて、それがもう限りなく育っていくと言うおかげを頂いて、初めて一年一年ありがとうなっていくのであり、成る程、これが位と云うものかと思うように、信心の位を自分に感ずる事が出来る。
 はあ、今小学校だな、いやまだ自分は幼稚園だなと、いや自分はもう中学だ、高校だと、自分で感じられれる、いつまで立っても自分の信心は幼稚園だなと、云ったような事の内容に、本気でいわゆる合楽理念の実験実証にいよいよ、いわゆる真剣に取り組まなければいけない。
 一生懸命参ってくる、一生懸命。やっぱおかげ受けますもんね。一生懸命参ってくると。けども真剣に教えに取り組むと云う生き方をいよいよ身に付けていかなければ、一年一年ありがとうなっていくことも分からないし、位がついていくことも分からないですね。
 昨日伊万里の竹内先生が御夫妻、それから、何ち云う助役さんでしょうか、と運転をなさる方との参拝がございましたが、もう本当に毎朝朝参りをしてこられる。そして、毎朝ここで二日遅れくらいのテープを聴かれ、そしてそれを又皆が研修して帰られる。
 そりゃあのう先だって富久信会に五、六人の若いと云うても、もう三十四、五位の方達、三十か三十四、五位の方達ですけども、もう真剣に教えの研修をなさるね、そしてそれを生活の上に表しておられると云う様子を一人一人が語られましたが、そして昨日でしたか、申しましたように、もう、とにかく色々体験はいっぱいあるけれども、もう結論として、一言申し上げるならばあのう「親先生の手にも足にもなりたい」と言ったような信心が育ってきておることですね。これはまあ中心の信心にも勿論よることですよね。竹内先生の人柄による事なんです。
 で、その信心になら、皆が感化を受けていかれる、これにはもう私も感心します、と云うて竹内先生、昨日云うておられましたが、やはり、昨日も運転手、運転をなさる方が、何々課長さんと言う方の、お初穂をあずかってきておられました。
 別にどうて、ことないでども、やはり、合楽にお参りするなら私も御願いしますというのでしょう。やはりあの竹内先生の人柄、又は信心に、いわゆる傾倒していきつつある人だと思うですよ。どうでもその、やっぱり芯になる人達の信心がね、真剣に合楽理念を求める。
 先だって、十三日会に先生がおっしゃっておられましたが、大変万事万端の上に、御都合御繰り合わせを頂いて、例えば市長さんを今度なさると、四期勤めなさる事になるんですけれども、後十五日で、その次の市長になるか、ならないかと、それが決まるんだそうですが、もう穏やかな事ですと。その色々とこう、演説して回る事もなければね、とにかく、やはりその、伊万里市が伊万里の市長に、やはり傾倒しとられるという事じゃないかと、こう思うですよね。
 いわゆる今年の先生の信条というのは、元旦に、お書き下げを頂かれて、「和すれば乱れる事なし」もし心が乱れた時に、はあ自分は今、和してないんだなあと、悟らせて頂いては、この正面に軸がかけてある、その軸を見て、ま、いよいよ乱れることのない、市政の上にもね、市の発表の上にも、そういう願いをかけておられる、と云うのです。
 ですからね、そういう風に、日々その信条に取り組んでね、私はそれが真剣だと思う。一生懸命、何かおかげ頂かなんから、一生懸命参りよる。五年も十年も続けとる。というてもそれこそ段々年を取って参りますと、そんなに日参りも夜参りも出来んようになる、ね。
 そすと、いうならば不思議な事です。身体が弱ってくると賃を取ってする仕事はと、ここに礼がありますように、仕事でも頼み手がないように、なるように、年を取ってくるに従って、ただ、一生懸命参った、拝んだ、そしておかげ頂いたは、年を取ってくると、出来なくなってくるんですよ。
 ほんとに若か時には、こんくれなおかげはすぐ頂きよったばってん、ち、云うても思うても、もう年を取ったら出来ない。それがなら、信心の位がついてくるというか、ね、一年一年有り難うなっていくという信心は、教えに真剣に取り組んで、その都度都度の手柄やら、問題が、もう問題にならないほどしに、これをおかげを頂いていく、ということが、ね、私共の信心の信条になってしまわないと、いわゆる年が取るほど位がつくと、いうことになってこないのですよ。
 おかげ、今頂いておって、ね、教えに基づく、合楽理念に基づく生き方をいよいよ身に付けていかなければ、昨日、一昨日でしたでしょうか、久富繁雄さんの所の奥さん、朝参りをしてきて、お届けをしておられました。
 もう今朝からもう本当に有り難いと云うか、まそれこそ真剣にならざるを得ない御夢を頂いたと、こういうんです。というのは、
”親先生が私の方へ見えております。「久富さん、愛吉君なおるか」と云うて入ってこられた。愛吉君と云うのは、今中学、今年が一年でしょうか、孫さんなんです。「いや、愛吉は今、風呂に入っとりますが」と云うておるうちに、その愛吉がひょろっとでてきた。というのです。して「ここに真剣があったろ、刀があったろが」と「はい、ございます」というて、その刀を持っていくと先生がそれを抜いて、愛吉君ののど先にこう突き刺される姿勢をされたから、もうそれこそびっくりしたけれども、金光様とこうお唱えしてるうちに、親先生から殺されるなら良いとこう、腹が決まった途端に目が覚めた”というのです。
 皆さん、どう云うことだと思うですか、はあ、繁雄さんのお宅ちは、もう繁雄おっちゃまと云い、この頃は宮崎当たりのお百姓さんなんかは、合楽に電話をかけるよりも、繁雄さんの所に電話をかけた方がおかげは早か。というくらいな評判があるくらいですよ。
 まあ良い信心に一家中が取り組んでおられると云う事でしょうが、私は刀があるかと云うことは、お前達が大体、一生懸命に合楽合楽ち云いよるばってん、どのくらい真剣さがあるか。私はその刀と云うことは真剣という風に頂くべきだと思うですね。
 そしてなら、かわいいその孫が親先生に殺されると、云ったような場合であっても、なら親先生から殺されるなら、もういとわないとね。それこそ親先生につながっておっても、さらさらいとわんと云うくらいの云うなば、信心こそ、私は本気で合楽に傾倒しておる。
 真剣に教えの有り難さが分かっていきよらなければ、出来ることではない。まあ夢の中でかろうじて合格したという事だねと、昨日は申しましたことでした。 先生どうぞ助けて下さいと云わなかった。金光様を念じておったら、もう親先生に殺される、しかもそれがかわいい孫であってもね、昨日からですか、申しておりますように、あの、結局信心が云うなら、中学から高校、高校から大学という風に進んでいかなきゃならん、一段一段位が頂けるためには進まなならん。為に必ず試験がある。ね。
 為にはなら、その試験と云うのは、決して大体、云うたらもういつも繰り返し繰り返し教えておる事の中から、でるのである。
 だからそれを本当に勉強しておれば、どういう試験であっても、楽々とそこを云うならば、合格して次の又、信心の位が進んでいくことになるのである。 
 まあ夢の中でおためしを受けられて、信心の位が一段上がられたといったような感じなんですよね。
 神様は夢の中にでもおためし下さるですね、それがなら真剣に、私は合楽に傾倒し、合楽の教えを信じて行じておらなければ、私はそういう芸当は出来ないと思うね。互い折角信心をさせて頂いて、それこそもう本当に本気でま、宗教を求め、本気で金光教の信心が分かりたいという方が、本当に合楽に合楽理念を聞かれたら、それこそびっくり仰天される程しの内容があるお話を、日々お互い頂いておるのですから、そのただ、お話だけに終わらずに、それが自分の血に肉になることに、いよいよ真剣にならなければならない。
 それこそ、若い時には、誰でも一生懸命参りゃおかげも受けられるのです、確かに。けども一生懸命参ったからおかげを頂いたというのではいけません。
 これも昨日、秋永嘉朗さんとこの家内です。由喜子さんが昨日、の何かの御用で出てきとりました。そいで、御礼を申しておりましたが、先だって雅代さん、娘さんの高校の卒業式があった。ところがその日に限って、熱っぱつして親子共いけなかったね。
 時にあの雅代さんが云うことが、「お母さん、もうこんな成り行きの中に、いけんごつなったっちゃから、いっちょん問題じゃない。いやあそりゃもう、お母さんはそれよりか、それよりももっと、これは何か、神様の御都合に違いない」としてまあ、その後に、親子でそんな話をしてから思いました。
 もしこれが信心が中らなら、本当にもう一年、いや、一生に一度の卒業式に、親子がいけないてんなんてん、まあどうしたこっちゃろうかと、思うたでありましょう。けれどもね、信心を頂いて、日頃成り行きを尊ぶ、大切にしていくという生き方を身につけるための修行さして頂いておれば、もうどんな場合であってもです。それをね、困ったこつ、どうしたこっちゃろかと、思わんでんもう成り行きの中に、起こった事じゃから問題ではないと云うお届けをしました。
 これもあるところから参ってくる、嫁さんがも二ヶ月ばっかり出ていっとる。それでお届けさして頂いたら、放任しとけということであったから、放任しとりましたら、先日その息子が呼びに行ったごたるふうです。そしてあなた、もうすぐ近所に家ば借りて夫婦で住むごたるふうに、計画しよるごたる模様でございます。とこういうね。
 これが普通で云うならば、義理とか、人情とかね、立て前を例えば親にも一言もなしにと、いろいろとそこに、問題が問題を生んでいくとでしょうけれども、お取次を頂いて、御願いをしてそういう事になっていきよるのですから、あの人達も立ち行きますように、家も又おかげを頂きますようにと云う願いであった。 まあだ、それこそ一年あまりしか参って見えませんけれども、本気でやっぱ、合楽理念に基づくとそういう考え方が出来るようになるんです。そりゃもう本当に普通であったら問題が又、問題を生んでどういうことにならんとも限らない中にあってです、それがひとっつも問題が問題じゃなくなってくるです。それがなら、どんなひどいきついことであっても。
 昨日一昨日、これもそれこそ親子三人の者が泣きの姿でお届けに見えましたんですけれども、どきどき参ってくる方なんです。それが子供さんの事でもうとにかく、もう、それこそ突くの刺すの、それこそ小指をつめろのと云うような、そのところに追い込まれて、もうそういう事になったらどうなるじゃろうか、どうするじゃろうか、というもうそれこそ親子三人が泣きの姿でお届けに見えました。
どうしようもない。
 だからね、私がお取次をさしてもらっとくから、電話でも良いから娘が云いきらんならば、あの親が電話をかけてね、こうこうこんなわけだから、そう云うことがないようにと、云うて電話をかけなさいとね。
 まあ不安で心配でたまらんじゃったけども、まあ親先生から、そう云われたららまあ、不安でもあったでしょうけれども、電話をかけてしたら、昨日御礼に出て見えました。もう嘘のように、向こうが手の平返すように、変わって万事円満におかげ頂いたとこう云うのである。
 それで私がその夫婦の人達に昨日は夫婦で御礼に出てきましたから申しました。不安とか心配とか、いうごたるときには、あんたどんが朝参りもしたことなかろうがのと。だからそういう特別なときには、朝参りでもさせていただいて、そして本気で生の御理解を頂いてね、そういう修行でもさせて頂こうと、修行さして頂こうと、云う気になると不思議に不安が心配がなくなっていく。
 その不安心配がなくなっていくそれに頂くおかげが、力になるのだよというて、ま昨日話した事ですね。力と云うのはそういうものね。
 教えを本気で行ずる事によって、もう本当に涙の出るような悲しい事であってもです、それがその有り難涙に変わっていくような、力があるのが、私は教えを本気で朝参りをする、教えを頂く、その教えに真剣に取り組むということなんですね、そこに不思議に自分の心にゆとりが生まれてきたり、安心が生まれてきたり、いいや反対に、もうもう本当に、おかげでと云う喜びさえ湧いてくるようになって来るんですね。
 だから、お互いがね、こうして信心の稽古をさして頂いとるから、いつどういうおためしがあるか分からんけれども、それで信心が挫折したり、そこんところをいつまでも堂々回りをしておるといったような信心では、今日の御理解のように、一年一年有り難うなって行くということにもね、信心すれば、一年一年位がつくものじゃという位も、感ずることも出来ませんね。
 はあこれが位というものだろうかと思えるような、ひとつ一年一年有り難うなっていく信心をいよいよ身に付けていきたいですね。     どうぞ